傳法院今昔
一、慶応元年代
馬や駕篭で旅した八泊九日の成田山詣で
矢立で書いた金銭帖
当成田山傳法院寺宝として残っているものの中に「慶応元年八月 成田山道中休泊帖」があります。
和紙を縦に二つ折りにし、更に横に二つ折りにしたものをコヨリで綴じたごく簡単な帳面です。すでに黄ばみ、随所に虫の穴が見えます。茶店で、宿で、又ある時は立ったままサラサラと支払った金額を矢立で書きとめたもので、墨で塗りつぶしたところや、書いた文字の上に、更に書きたしたところがあり興味があります。
では一体誰が書いたのか?誰が会計を担当したのか?
登山参拝に参加した人の名前が連記されていますが、その最後の名が「大先達」とあるので、時の住職であった昶盛先達そのものの筆になるものか、或は裏表紙に「武八大野屋本店」と墨書してあるところから、武州八王子に住む大野準三初代講元の筆か。又或は講元側近の能筆家の手になるものか。なかなか達者なくずし字ですぐ判読しがたいのですが、最初の一、二頁には次のように読むことが出来ます。
八月五日 めでたく出立
金二朱 新町休
金一朱 新田休
金一分 酒代
金一朱 日野よしのや休
金一朱 日野舟場賃
金同じ 谷保茶代
金一朱 日野より府中迄馬
参考 朱(しゅ) 江戸時代貨幣の単位
一朱は一両の十六分の一
一歩の四分の一
往復八泊九日の道中
八月五日 府中松本屋
六日 四谷ヤマト屋
七日 船橋佐渡屋
八日 酒々井中屋
九日 成田菱屋
十日 船橋いせ喜
十一日 四谷ヤマト屋
十二日 府中松本屋
十三日 傳法院帰着
八王子―四谷十里 四谷―船橋十里 船橋―成田十里といわれ、片道三十里を往復して八泊九日を要しました。駕篭・馬・船が唯一の交通手段であったのです。
暑い夏空の下、黙々と歩む白装束の一行
慶応元年三月、初めて八日町の一劃に御堂を建立し、管轄庁の認可を得て、六月に本堂落慶入仏供養大祭を挙行しています。この喜びの未ださめぬうちの八月に、このことを成田のお不動さまに報告、御礼しなければと十五人は、講員九十五名の代表として、白装束、手甲、脚絆のいでたちで、出発しているのです。あの暑い八月初旬、でも一行の耳には蝉の声も心強い応援歌に響いたことでしょう。汗して歩いて成田の宿につき、翌朝午前三時の鐘の音とともに上堂、未だ暗い本堂内に坐し、大太鼓の音、読経鐘の音、そしてパチパチと燃え上がるお護摩の火を仰いだ時、その時の感激はいかばかりであったでしょうか。至心に家内の安全、息災延命を祈ったことでしょう。
二、明治三十九年代
同行二人で書きあげた石塀寄進者名
当山境内南道路に面して石塀が連なっています。
ここの石塀は縦24糎、
この石塀は明治39年に完成しています。文字を書いた筆耕の方は、吉本丁良久という人で、
楷行草篆隷の各書体を自分のものにしていた人で、
時の住職第七世永盛法印から手渡しされるその時その時の浄財寄進
奥さんは仕事に励む夫の為、毎食純白な御飯を炊き、
飲むとすぐ眠くなり床に入り、
一方丁良久さんはお店の店内装飾を一手に手がけていて、ひっぱりだこだった。森万呉服店・
五十才位で高血圧で倒れています。
三、昭和十八年代
日帰りは弁当を、泊りは二合の米持参
冠省 御尊状正に拝見仕り候 毎々御引立を賜わ
り御芳情の段御厚礼申し上げ候 陳者御照会の件
左記の如く御座候
一、御登山日
浅川一心講 四月二日
八王子一心講 四月六日
(但し御泊りの場合は他に御定例の御約束有し
候間、十一日に御変更御願い申し上げます)
立川戰勝講 五月十二日
立川一心講 三月下旬
(何日頃なりしや御都合伺い候)
ー、御賄料の儀に付き先年九月頃より鮮魚野菜等、
資僅少のため本年正月より御多勢様の御扱い出
来ざる事に相成り営
置く事と相成り、日帰り御講中は全部御弁当御
持参願い、御席料金五十銭、サービス料金十銭
頂戴仕り居り御願い申し上げ居り候 又御泊り
の御講中に対しましては最大限五十人以下と云
ー、従って宿泊の御客様は飯米僅少に成りし間、
御一人二合以上づつ御持参願居り候
ー、坊入其他変化無き候
先は右要用御返事迄 敬具
昭和十八年
千葉県成田山門前
鉄道省御指定旅館 大 野 屋
八王子一心講
先達 立花順盛様
之は八王子一心講中が定宿としている大野屋旅館宛に登山日の照会をしたのに対する返礼が、
大東亜戦争がそろそろしくなっきた昭和十八年の春のことです。
登山支出帳」
その翌昭和十九年に入ると成田詣でどころではなくなりました。
昭和二十三年に入ると人心も少しづつ落ちつきをみせ、
四、昭和二十年代
あの戦火から御本尊を守護した順盛和上
本土空襲が伝えられる昭和19年代、時の住職順盛(じゅんせい)和上(1992年遷化)は、本堂の床下にもぐりこみ、シャベル一本で防空壕作りを始めました。
本堂の床下は、頭を下げて歩けるほどの高さがあり、丁度本堂中央部は四畳半ほどの広さをのこして、床柱が何本も立っていました。
当時小学六年生だった私(照邦〔しょうほう〕和尚、1999年遷化)も、学校から帰ってくると、裸電球ひとつをたよりにバケツをロープの先端に結びつけ、穴の中の和上のかけ声でロープをたぐりよせ、バケツの土を地表に盛りあげていきました。
特にご本尊のこの壕の中へのご遷座のときは大変でした。
なにしろ等身大のご本尊です。後背の火炎を取り外し、岩座上のご本体を二人してやっと所定の場所に収めました。今火炎の一部が傷んでいるのは、この時のものです。
このご本尊は、明治39年永盛住職代に、佐藤光重仏師の手によって刻まれました。順盛和上の誕生(明治39年5月5日)と同じところから、まさしくこのご尊像は順盛和上そのものであります。
なんとしても、このご尊像を戦火からお救いしなければならない。いままで大勢の講員信徒の皆さんに信仰されてきた、霊験あらたかなご尊像だとの信念から、手に豆をつくり、腰の痛みをおさえての土堀り作業でありました。
あけて昭和20年8月2日未明、B29による空襲が始まりました。火の手があがってきました。順盛和上は壕の上の土を水で踏み固め、その上に一斗ダルに水を漲りました。壕の中のご尊像をお守りするに少しでも役に立てばとの思いからであります。
更にまた、本堂石段脇に設置されたコンクリート作りの防火用水にも水を満たし、この中に仮本尊として本堂にお祀りしておいた立不動尊像を沈め、
「どうか壕のご本尊をご守護したまえ。南無大日大聖不動明王」
と、祈りをこめてから避難しました。
このおかげで、壕の中のお不動さま、現本堂のご本尊は無事助かったのです。なにしろ、3日の昼すぎ、処々に倒れている死体をかきわけ、一面焼け野原と化した中を、やっとの思いでたどりついた傳法院は、焼けた石塀と、頭のない石燈篭、欅の幹の焼けぼっくいだけだったのです。
不思議にも、防火用水に沈めた立不動尊は、後背と左半身を焼いてはいましたが、お顔や剣をもった右半身は大丈夫でした。自身の身を犠牲にして壕のご本尊をお護りしたのだと、和上は涙を流して、感謝の祈りを捧げたものでした。この身を焦がした立不動尊は、現在、左脇壇におまつりされています。
五、昭和二十年代
大願成就・御礼の奉納額の数々
昭和二十年の戦火をくぐりぬけて助かった当山寺宝の奉納額(絵馬)があります。お不動さまに願をかけ、
(一)お不動さまを前にして至心に手を合わせ祈念する「人物絵」六点
(二)「成田山」や「不動明王」の文字額四点
(三)お不動さまを象徴する「劍」額三点
(四)その他二点
右計十五点が現存しています。
〔1〕
成田山と墨書された赤い提灯が吊され、
「おかげさまで病弱だったこの娘も、こんなに元気になりました。
よろしくこの娘をご守護下さい。南無大日大聖不動明王」
祈る声が聞こえてくる額です。
〔2〕
中央に「成田山」の三文字、左手には願主横田初五郎、
(略)するとこの額の書は明治三十七年にも書かれ刻され、
親子そろって名前を書きつらねています。
私には親子そろって二十八日ご縁日の夜浴衣がけでお詣りし、
銅板で出きたワラヂ一足が奉納額としておさまっています。
「弱かった体も足もこんなに強く元気になりました。お不動さま有難とうございました。」との声が聞こえ、「
六、昭和二十五年代
貸切り遊覧バスで日帰り参拝
一心講社大本山成田山新勝寺参詣御案内
当講ハ四月十二日ヲ以テ本山へ日帰リ遊覧大型バ
スニテ参詣可致ニ付キ、御希望ノ御方ハ御申込被
度ク 但シ人員二制限アレバ定員二達スル時ハ〆
切りマスカラ御承知下サイ
八王子・成田間往復自動車賃、中食料、坊入料、
及ビー心講大護摩御修行納金、御内陣参拝料、
茶代祝儀共一切
二、四月十二日、午前六時 八王子南新町成田山
不動尊集合、成田大野屋休憩、十一時大護摩修
行、御内佛殿参拝、本坊客殿ニテ坊入、御山主
御挨拶、旅館ニテ中食後自由解散、午後三時大
野屋集合、遊覧バスニテ八王子帰着解散 以上
昭和二十五年春
成田山傳法院 講元世話人一同
汽車、電車での乗ものにかわって、
三十九名が参加し、時の世話人は森田善兵衛、荒井与三、秋葉元七郎、井上庄七、丸山今朝兵の名前がみえます。
七、昭和二十七年代
真赤な大傘の列とお稚児行列
南新の成田山不動尊本堂落慶
十一月二十二日本山大僧正を迎え
盛大崇巌な稚児行列と入佛式厳修
八王子市南新町不動尊=成田山傳法院=は八市の
戦火の日炎上したままになっていたが終戦後七年、
講中の不断の努力が実り、浄財喜捨二百余万円を投
じ本堂の新築中であったが、この程竣工したので廿|
二日落慶入仏式を営み廿四日まで三日間、演芸会を
催し大祭を執行する。
廿二日の人佛式には千葉県大本山成田山新勝寺よ
り院代小林照動権大僧正の外十余名が来山稚児百余
名、山伏行者数名に御詠歌講中が従ひ、東町小田原
屋旅館で勢揃ひして大通り八日町を経て八幡町に至
り、八光館積より中通りを過ぎ成田山傳法院に入る
コースで、盛大崇厳なる稚児行列が行はれる。 新築
の本堂で大護摩の厳修を執行する。
成田山傳法院は宝暦元年傳盛法印の中興にかかり、
明治二年大本山成田山新勝寺住職原口照輪上人の念
持仏大日大聖不動明王像を中興第五世昶盛法印が拝
領したものである。
山伏が法螺貝を吹きならし先導し、講旗、お稚児さん、
敗戦の無一物の中から立ち上って、
戦後初めてのはなやいだ一大絵巻に一般市民は驚いたと語りつがれ
八、昭和二十九年代
今でも使っている登山九十周年記念の丸盆
講員のお宅を祈願に訪問した時、お茶碗をのせたり、
昭和二十九年四月が登山参拝九十周年目、
世話人は丸山今朝兵、秋葉元七郎、糸井敬治、樫村喬右、武田仲蔵、長沢恒吉の名がのっています。
記念のお盆は一ヶ八十五円で百四十ケ発註し、この紙函は南新町・
九、昭和四十九年代
スト騒動にふりまわされた110回記念参拝
当傳法院が分院昇格のよろこびをもって、
四月初旬はこのハプニングで多忙をきわめた。
例年実施の四月十一日登山は四月五日の役員会の席で、一号車から九号車(四号車なし)迄の八台、最大人数一台五十五名満席の乗車人名簿、配車、
ところがその翌六日正午近く、
急ぎ三役支部長会議をもち、大野屋の都合も聞いて十五日延期の決定をみる。
参加者全員に110回登山記念・分院昇格記念として、
八王子 (20号線)…初台(首都高速)=小松川(京葉高速)=船橋(東関東高速)=成田…宗吾霊堂巡拝
こちらの動画は、8ミリフィルムに記録されていたもので、「傳法院客殿落慶お練り供養」とタイトルが記されていましたが、成田山傳法院史を読むと、「客殿」ではなく、「本堂」の間違いではないかと思われます。
成田山傳法院史
平成6年1月1日 発行
成田山登山参拝130回を記念して、一心講の成り立ちから今日に至る歩みを記述して篤信のみなさまにお目にかけようと言う記念行事の、そもそもの発足から足かけ2年、傳法院に残る数々の秘宝、古文書、先住職の丹精の記録等を検修しているうち、一心講史を内蔵した傳法院史にまで増幅発展した。ー編集後記よりー
こちらに記載しましたのは、成田山傳法院史の60頁から71頁の部分です。
