成田山傳法院史より
成田山傳法院と八王子一心講の沿革
成田山不動寺傳法院は、真言宗智山派智積院を総本山とし、大本山成田山新勝寺を本寺とする成田山八王子の分院である。
天正十八年(1591年)6月23日、仏暁 北条氏照公居城八王子城の攻防戦の火蓋がきられ、前田上杉並びに真田の三軍、総勢三万に及ぶ軍勢の総攻撃を受け、日没、八王子城は落城したが、城主氏照公は小田原本城の要請の下、精鋭三千を率いて進発した後、にわかに「陣触れ」を発し、農民はもとより木樵、大工、猟師、鍛冶職等を徴集し、頭領半沢坊俊定は分散していた修験道の僧を束ねて入城し、城将横地監物、狩野一庵、近藤出羽守、八条流馬術で日本中鳴り響いていた中山勘解由等の統率のもと、共に奮戦し城兵悉く討死す。
御門室女房達も御主殿の滝に身を投じ、幾日も幾日も滝の水が真紅に染まっていたと記録されている。九十年にわたる後北条氏の関東支配も爰に終焉したのである。
幸い生き残った修験僧は、城下再建の折、市内島之坊宿を定められて身を寄せたのである。文禄四年(1595年)傳法院主俊盛法印、新たに一宿一坊を開くと過去帖にあるところをみると、この時期、創建したものであろう。寛文七年(1667年)武蔵国多摩郡柚井領、横山村御縄打水帖の記録によると、島之坊宿には常福院、養源院、祐亭坊、宝道院、清極院、普借院、満能院、覚法院、神教院、仙極院、宝正院、八大院、松源院、大覚院、伝寶院ありきと記されてある。
さて、八王子一心講社の設立については、次の記録がある。
「慶応元年三月、篤信者大野準三氏の懇請に依り八日町百五番地に移り、本堂建立し不動尊を勧請す。以後成田山遥拝所となし、武州八王子一心講社を設立す。同年八月、成田山新勝寺へ代参す。信者15名による初登山参拝である。その後、明治二年四月、新勝寺大僧正原口照輪師より厨子入不動尊を拝領す。」現在当山寺宝の厨子入不動尊である。また道中記録があって、
成田山代参道中休泊帖、
慶応元年乙丑八月吉五日出立、
府中 松本屋一泊
四谷 大和屋一泊
船橋 佐渡屋一泊
酒々井 中屋一泊
成田 菱屋 一泊
船橋 いせ喜一泊
八王子帰着
代参15名、惣金四拾三両壱メ八十六文
内一金五両二メ壱朱八十六文は駕賃
*慶応元年から明治八年まで記述が無い。当然続けられていたが資料は焼失された。
永代大護摩料奉納
証書
一金百円也
右者永代為護摩料御奉納被成正到落手候然
上者御講中家内安全子孫繁栄之祈念無怠慢
尽円心令修行候且年々小長日本札一月一日
御修行済之上差上可申候仍而支証如件
明治十年九月二十七日 成田山納所
武州八王子一心講中
行者 傳法院
*また明治39年の記録は、道程がよく判る。
登山者42名、八王子―新宿―両国駅―成田(一泊) 両国―飯田橋―新宿―八王子
明治40年4月15日 登山者47名
大野屋宿泊費1名にツキ55銭弁当15銭
*それが明治45年に至ると、登山者74名となっている。
一、大正7年8月2日
成田山一心講記念碑建立による見積もり協議す。大野屋方にて建碑の敷地に付き石工高橋文次郎代及その他と打合す。
一、大正7年12月3日 世話人総会
改築委員を推挙せり。
一、本山建碑費用 本山永代大護摩料奉納
一、南新町本堂内陣改修及び修理 本尊両童子新規彫刻費 新規護摩坦一基
収入金4,500円40銭 寄附金
金71円70銭 入仏式奉納金
金52円 銀行預金利子
計金4,627円10銭也
支払金4,786円19銭也
収支不足金159円9銭也 借入とす。
大正8年6月
先達 傳法院 立花永盛
講元 大野正之助
世話人一同
大正7年4月6日
本山建碑に就いて出張す。
同日、本山へ金500円也 奉納す
同 年4月11日
建碑総費10,786円也
東京府下豊多摩郡淀橋角筈764番地
高橋文次郎殿へ支払
大正8年4月11日 登山者214人
*この頃から、例年登山参拝日は4月11日に定着し始める。
大正8年5月14日 本堂改修入仏式執行
午後1時 停車場を出発 東京より2名
青梅より1名 傳法院主、田之倉、小川六名他越天楽、稚児、世話人を加え人力車40台にて講元大野方へ、更に当院まで行列す。
*本山登山は遅滞なく続行される。大野屋一泊が恒例となっているが、昭和11年に至り、少しかわってくる。
昭和11年4月11日 120名
日帰り大型観光バス3台(35円―2台、38円―1台)
立川ハイヤー―1台、浅川ハイヤー―2台、他ハイヤー―5台
昭和12年4月11日 67名
八王子―成田間
中央線御茶の水駅乗換、両国駅乗換、成田駅着 一泊後成田駅解散
代参人 2円50銭
講中 4円50銭
講外 6円
弁当 みはと75本(1本30銭)
昭和13年4月11日 166名
成田山開基壱千年祭大法会 八王子一心講 金剛講詠歌社中先導にて行列して本堂へ参進 大護摩修行す。
代参人 3円50銭
講中 5円50銭
講外 7円
*昭和13年から京成電車開通して利用始まる。
昭和14年4月11日 132名
八王子―上野間省線 上野―成田間京成
成田―上野到着解散(日帰り)
大野屋中食代1円なり。
昭和17年 浅川一心講設立準備す。
4月26日 成田山登山
浅川駅―上野駅・上野(京成にて)成田着 11時
大護摩修行、坊入後大野屋にて中食
成田(京成)―上野―浅川駅着解散
昭和18年4月2日 浅川一心講正式設立 初登山参拝
*戦争、次第に烈しくなる。
昭和18年5月6日 149名
戦時下警戒管制のため日を繰下げる。
立川より38名参加す。
一、規約変更
18年度より世話人は月掛金20銭とし年番に当る時は払込なし、講社の負担とす。
一、本年度より抽箴代参人を中止する。
*昭和19年より昭和22年まで登山は中止となる。
尚、昭和20年8月1日の八王子大空襲の折、傳法院は全焼す。
*昭和23年より、再び本山登山再開
*世話人に八日町通りの商店主が多い。
*昭和23年50名、同24年22名
同25年39名と激減した。ようやく同27年になって116名に回復した。
昭和29年一心講創立90周年記念
記念品 御盆140枚配る。
*この頃より五王バス、高尾観光バス等のバスを利用している。
昭和40年4月11日 180名
観光バス4台、1台28,500円也
本年より講外の別なく一律とし、世話人協議の上決定す。
昭和43年4月11日 478名
日観自動車大型バス1台
マイクロバス9台
成田山大本堂建立落慶大開帳に参進す
昭和44年4月11日 340名
八王子6時出発、新宿より高速道路に入り市川より京葉道路、船橋より成田大野屋旅館着10時、大護摩修行、坊入、大野屋にて中食、2時駐車場集合、宗吾霊堂参拝
稲毛海岸を通り八王子帰着午後八時なり。
*この形式は、今日とほぼ同じであるが、帰着は常に午後5時乃至6時である。
昭和50年大本山成田山光輪閣落成記念の大開帳にあわせて5月12日本山登山参拝が行なわれたが、参加者何と588名であった。
昭和57年10月25日弘法大師1150年御遠忌記念事業成田山大塔上棟式、一心講寄附金金1,446,000円也 成田山大塔建立に伴う志納総額は一金3,877,000円也。(377口)
*昭和59年度より、号車別ワッペンの着用が決まった。因にこの年の会費は1名につき5,500円である。
故順盛和上の親筆になる記録は平成3年4月11日、登山者449名、参拝費6,500円 先達照邦師、講元川和・副講元阿部・丹沢・会計小上で終わっているが、平成4年2月23日、御遷化遊ばされ、この年、奇しくも真言宗中興の祖、興教大師150年御遠忌に当り、その因縁を深く深く嚙みしめている次第である。
昭和20年の戦災で旧堂宇は悉く灰燼に帰しましたが、故順盛和上の御機転で本尊は本堂下に深く掘った土の中に安置されて焼失を免れました。
また、特筆すべきは、信仰の道場としての客殿造営を思い立たれ、昭和37年5月着手、同年10月落成し、お練り供養をもって祝ったのでありますが、その後は傳法院関連ばかりではなく広く開放し、多くの人々に利用されて喜ばれております。
この盛挙も勿論一心講が中心となり、広く一般の篤信の方々の浄財を仰いだのは申す迄もありません。
開運厄除、家内安全、商売繁盛の護摩供の厳修は連日で、法炎の絶えることはございません。院内には「恵比寿堂」「筆大師像」「水かけ地蔵尊」等祀られ、祭日には善男善女で賑わい、大師像の周辺は合格祈願の絵馬が鈴成りで、年々合格者は一人残らず御礼参りに訪れております。
~以上 成田山傳法院史より~
なお、昭和37年10月に落成した客殿の、お練り供養の様子は、8ミリフィルムで残っておりました。
昭和37年当時の八王子市八幡町~八日町周辺の様子が映っています。
このときに完成した客殿は、惜しまれつつ平成24年に取り壊しとなりました。
取り壊し前の姿の映像もありますので、折を見てまた見られるようにしたいと思っています。